刑法に関するニュース
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少年犯罪:昨年の検挙数848人 6年ぶり増加--県警まとめ /香川毎日新聞全体の刑法犯検挙数は3054人(前年比211人増)で、このうち少年(14~19歳)が848人(同138人増)を占める。県警では「子どものころから規範意識を植え付けるため、関係機関と協力して対策を進めたい」としている。【松倉佑輔】 13歳以下も含めた非行 ... |
刑法関連エントリー
39刑法第三十九条(1999年)
犯行時、犯人が心神耗弱もしくは心神喪失の場合は罪に問わないという刑法第三十九条の規定をめぐって繰り広げられる犯人と鑑定人の虚々実々のやり取りを描いた心理サスペンス。監督は「家族ゲーム」の森田芳光。 ...

仏刑法における子猫殺しの扱い
坂東眞砂子の子猫殺しという行為が、フランスの刑法でどのような罪になるのかに関連して、 次のような興味深い論文の記述がありました。 現行フランス刑法の動物虐待罪規定では、「家畜」のみならず、「飼い馴らされた動物」や 「捕獲された動物」も ...

民法?刑法?商法?どれがお好き?
... 私の友人は 「民法・家族法」「刑法」「刑訴法」 が好きなんです。 そんな趣味の彼女は「相続問題がらみの殺人事件サスペンスドラマ」が好きです。 反対に私は上記3つは苦手で(´・ω・`;) 法学部のクセして、「刑法」「刑事訴訟」「民事訴訟」履修 ...

国家の尊厳を傷つける行為を禁ずるトルコ刑法第301条
... 民族のアイデンティティやトルコ国家の尊厳を傷つける行為を禁ずるトルコ刑法第301条というのがあるそうです。 Reuters電、BBCの記事もでてます。 ... 争いの種は、トルコ刑法第301条であった。最大の3年の拘留。1月、法廷は著名な小説家Orhan Pamuk ...

「39 刑法第三十九条」 (1999年作品)
... 犯人が心神耗弱もしくは心神喪失の場合は罪に問わないという刑法第三十九条の規定をめぐって繰り広げられる犯人と鑑定人の虚々実々のやり取りを描いた心理サスペンス。 ... (^^) 刑法第39条の精神鑑定による判決って、確かにいろいろな犯罪が起こるたびに話題に ...

刑法旅行記
トルコ旅行記(5):4月2日:アンカラ・アンカラ市内見学、カッパドキアへ(by 旅人のくまさんさん)
<2007年4月2日>
早くも今回の旅行の半ばに差し掛かりました。昨日お聞きしていた今朝のスケジュールです。6時半モーニングコール、7時から朝食、7時半に荷物出し、8時出発でした。この時間が標準になりました。空は晴れて、上々の天候となりました。
今日の予定は、午前中にカッパドキアまで移動し、世界遺産に指定された奇観の見学です。「ギョレメ国立公園およびカッパドキアの岩石遺跡群」として複合世界遺産に指定されています。
<早朝の散歩>
今朝も6時前に起きて、6時半から早朝の散歩に出掛けました。昨晩経験済みですから、ホテルを出て左手に出て、緩い坂を登りました。昨晩通ったバスターミナル付近では、何人かの人がバスを待っていて、タクシーも走り始めていました。
夜景で撮った銀行の前を通り過ぎ、アタチュルクの像がある交差点に出ました。逆光気味でシルエットになりましたが、この像も改めて撮影しておきました。
ここからは左に折れて、緩い坂道を更に登りました。左手にはデパートのような建物があり、地下一階へ下りるエスカレータが見えました。その横の敷地には、掘削途中で中止したような遺跡址らしいものがありました。紀元前からの歴史を持つ古都ですから、少し掘れば、遺跡が見付かるのかも知れません。朝食が始まる7時にはホテルへ戻りました。
<アタチュルク廟>
「トルコ建国の父」として敬愛されているケマル・アタチュルクについて先に説明しておきます。全てのお札にその肖像が使われていますから、トルコ旅行では、最初にお世話になる顔の人です。
今でもトルコでは毎年11月10日9時5分になると、1分間の黙祷が行われます。ケマルが死去した宮殿の全ての時計は9時5分で止められているようです。第二次世界大戦が始まる前の1938年のことでした。
現在でも愛国心の義務付けが刑法に明記されていて、国旗などの他、「テュルクルク」への侮辱に対する罪を明文化しています。「テュルクルク」とは、トルコ的なるものです。刑罰は、禁固1年から6年とされます。
現地ガイドのスワウィさんは、最初に「トルコではアタチュルクの悪口を言うことは許されていません」と口にされていました。「一部問題はありますが、、。」と言って、それ以上は話されず、口を閉ざされました。
その名前の由来です。日本の明治維新後、日本では「姓」を持たなかった階層が「姓」を持ちました。同じ改革を、トルコではケマルが行いました。本来、イスラム教徒に「姓」はないようです。アタチュルクは、議会からケマルが敬意を以って贈られた姓で、「トルコの父」という意味です。
ケマルについて、「正しい独裁者」という呼び方があります。確かに彼は合法的な「独裁者」だったようです。暗殺未遂事件の首謀者の死刑命令書に署名した後のことです。国会の場で、「現在の時点においては私がトルコだ!」と演説を締め括ったとされます。しかし、多方面に亘る改革と、実行力が、「建国の父」として、今も敬愛されています。
ケマルの改革のいくつかを紹介します。皮切りの大事業が、「スルタンにしてカリフ」である皇帝制度の廃止でした。1922年11月、「国民の敵」となっていたメフメット六世を退位させ、600年の歴史を持つオスマン王朝を滅亡させました。
次に、政教分離と教育です。彼は皇帝制度廃止に続いて、カリフ制度も廃止して、「宗教」と「政治」の分離を実現しました。その後、「国家企業主義」を採って軽工業から産業革命を起こしました。
彼は、ヨーロッパに留学生を派遣して人材を育成し、各国を手本に近代的法律を作成させ、全国民に初等教育を義務づけました。自らも地方を回って、教宣活動を行いました。スワウィさんは アラビア文字に替わって、アルファベットによる法律が作られました」と紹介していました。
その他にも、メートル法、太陽暦の採用、そして「服装改革」などを行い、今日まで続いています。ところで、先ほど読んだ4月16日の新聞に、近く行われるトルコの大統領選の記事がありました。イスラム教政党が過半数を握る議会第一党になったことで、政教分離を巡る古くて新しい問題が、再燃しそうな気配があります。
もし、イスラム教を国是とする国になった場合は、アタチュルクの評価も変わる可能性があります。アタチュルク廟の前では車を降りて、記念撮影をしました。この時は、トルコの大統領選の事も知りませんでした。
<カッパドキアへの途中に立ち寄った塩湖>
カッパドキアへ向かう途中で立ち寄った見学地は、トゥズと呼ばれる塩湖だけです。死海が有名ですが、塩湖は世界各地にあります。
トルコ東部のヴァン湖に次いで2番目に大きなこの湖は、琵琶湖の3倍ほどの大きさです。200~300年前までは海だったようです。冬は雨が溜まって水深2m程になるようです。
今は冬が終って間もない次期ですから、水量は減っていたものの、真っ白ではなく、赤茶けた感じの色でした。吹曝しでしたから、風を冷たく感じました。早々に戻ってきました。
<カッパドキア到着、洞窟レストランでの昼食>
塩湖の見学を終えたところで、カッパドキアへ向けてひた走りです。アンカラからの中間点は過ぎていました。昼頃にはカッパドキアの奇岩が見え始め、一寸した集落を過ぎてから、やや坂を登ったところで洞窟レストランに到着しました。
カッパドキアの名物は、密封した焼物に入れて仕上げられた料理でした。その封を切って、料理を取り出すパフォーマンスが、目の前でありました。カッパドキアワインに良く合う料理に舌鼓を打ちました。
<最初のカッパドキア見学>
最初にカッパドキアについて説明しておきます。カッパドキアは、標高千メートルを超えるアナトリア高原中央部に、100キロ平方近くに亘って岩石地帯が広がる台地です。キノコや煙突のような形の奇岩が林立し、自然が造り出した芸術作品です。この不思議な風景は、長年の火山活動で柔らかい地層と硬い地層が重なり、侵食されて生み出されました。
洞窟での昼食の後最初に見学したのは、ウチヒサル城と呼ばれる山が見える場所でした。ウチヒサル村は、カッパドキア地方で最も高いところに位置します。村の中央に大きな凝灰岩の岩の要塞が聳えていて、岩をくり抜いた住居が、遠くからでも見ることができました。カッパドキアを象徴する景観の一つです。今も住居として使われているようです。
<ギョメレ屋外博物館>
カッパドキアでは、4世紀頃から多くのキリスト教徒たちが共同生活を営んでいましたが、ギョメレはその中心となった地です。イスラム教徒の迫害を逃れた信者たちは9世紀頃から次々と洞窟教会や修道院などを造り始め、10世紀のビザンチン時代初期には400以上の教会があったといわれます。現在は、約30の教会が集まるギョメレの谷を博物館として保存・公開しています。見所の多い、洞窟教会でした。
7世紀頃のものから、教会の建設が盛んだった11世紀頃までのものが見学できます。大小の教会は、鮮やかなフレスコ画などで装飾され、それらの絵は「カッパドキア様式」ともいわれる芸術性の高いものです。
バジル教会は、ギョメレ野外博物館の入口から歩いて最初の教会です。11世紀頃に建設されました。教会の祭壇を囲む四方の壁に残されているフレスコ画である、「キリストの肖像画」、「聖母マリアと幼少のキリスト」、「馬に乗った聖テオドーレ」、「馬に乗って大蛇と戦う聖ジョージと聖デメトリウス」の4点は、多少傷みが目立ちますが、顔の表情などはなんとか見てとることができます。
バルバラ教会は、11世紀頃に建造されました。内部は十字型に広がり、2本の円柱、アーチ型の天井、ドームなどで構成され、石壁一面に、神話の動物などの模様が赤い塗料で描かれています。
十字架は、偶像が禁止されていた時代にキリストの象徴として描かれたもので、東側の壁には「キリストの肖像」、北側には「馬に乗って大蛇と戦う聖ジョージと聖テオドラ」、西側には「聖バーバラの肖像」の絵が残っています。
ヘビの教会は、入口を入って左側の壁に、聖ジョージと聖テオドールの2人の聖人がヘビを退治しているフレスコ画が描かれているのが名前の由来です。そのすぐ側には、十字架を手にしたコンスタンティヌス大帝とその母ヘレンの絵、入口右側には、もと美しい女性だったが神にお願いして男性に変えてもらったという伝説が残っている聖オノフィラスが描かれています。
暗闇の教会は、4本の柱に支えられた岩窟教会で、13世紀に造られました。小さな窓しかなく、内部に光があまり差さないため、フレスコ画の保存状態が良い教会です。また、この内部の薄暗さが、教会の名の由来と言われています。本堂の前にある控えの間には「キリストの昇天」と「使徒たちの祝福」のフレスコ画、丸天井にはキリストの一生を表す絵が残っています。
<隊商の宿、キャラバンサライ>
カッパドキアの奇岩の見学の合間に、シルクロード時代の隊商の宿、キャラバンサライを見学しました。
セルジュク朝時代の商業で、最も重要な3要素は交通路、キャラバンサライ、宿(ハン)とされます。セルジュク朝は、9世紀から10世紀末に栄えたサーマン朝に仕えた、トルコ傭兵隊長セルジュクの子孫が東部イランのホラサン地方で独立したのがセルジュク朝です。11世紀の半ば頃から12世紀の中頃まで、1世紀余りを支配した王朝です。
その頃、長旅の際にはキャラバンサライには、疲れを癒すため宿泊することができました。動物達も十分に休んで、また旅を続けました。セルジュク王朝の時代のキャラバンサライの起源は、「リバット」と呼ばれる建物でした。
以前は軍事目的で建てられた小さなこの建物は、その後に拡張され、もっと大規模に建設が始まりました。そして、信仰目的と旅人の宿泊所として使われるようになりました。
特にセルジュク朝のスルタンのクルチアスラン二世とアラディン・ケイクバト1世の時代にキャラバンサライ建設が増やされ、路線の信頼性は政府により保障されました。旅で被害に遭うアッシリア人の損害は、時の政府によって保障されました。すなわち旅における保険システムです。このシステムが機能し、国内と海外貿易が発展していきました。
このようにして経済面から強カなセルジュク人は政治面においても強くなりました。キャラバンサライは定着外国人との区別をつけず、全ての人に3日問の食料を与えました。靴の修理、貧しい人々への新しい靴の提供もあり、病人は治療され、動物の世話もされ、必要に応じて蹄鉄も打ち付けられました。
信仰礼拝は通常中庭の中央で見られる「キヨスクメスジド」((離れの礼拝所)と呼ばれる所で行なわれました。一般的に中庭中央に位置するキヨスクメスジドは、キャラバンサライの最も重要な場所でした。
アーチ形の台上にある中庭の辺りの部屋は宿、倉庫、ハマム(トルコ風呂)、トイレから構成されています。この部屋の暖は火鉢、もしくは、かまど等で、明かりはろうそくと灯油ランプ等で確保されていました。そして医者、僧、宿の主人、保存食料役人、獣医、馬の伝達屋、蹄鉄エ、コックから構成されるキャラバンサライの主達が任務に当たっていました。
見学したキャラバンサライは、壁や敷石なども新しいものでした。この地方で採れる石材を、切り出して使っていました。古い石材も所々に混じっていましたから、元々あった場所に再建されたか、大掛かりな修復を加えたもののようでした。
キャラバンサライは、1日分の旅の距離に当たる30~40km間隔で建設されていました。隊商のルートは、アン夕ルヤ~コンヤ~アクサライ~カイセリ、エルズルム~デブリズを通り、トゥルクメ二ス夕ンへ、更に黒海沿岸からアマスヤートカット~シヴァス~マラティア~ディアルバクルからイラクまで延びていました。
<再びカッパドキア>
カッパドキアは、アナトリア高原中部に100キロ平方近くに亘って広がる台地ですから、見所は各所にあります。次の見学地ですが、ガイドさんの説明を聞き漏らしましたので、良く分かりません。旅行計画書と照らし合わせて、バラの岩当たりと推測しました。
そう言えば、夕陽で染まる話をガイドさんがされていたような気がします。しかし、確かではありません。消去法でいけば、これ以外では鳩の谷が残るだけです。その鳩の谷は、岩に穿った住居の出入口が多数見えるはずですから、こちらでもないようです。
名前はともかく、この場所には、見下ろす谷には果樹の花が沢山咲いていました。山が侵食されて、堆積した粒子が土となっているようでした。見渡す限り、この光景が続いていました。
この名所を見晴らす場所には、休憩所もありました。2005年の愛知万博の際も実演されていた、硬いアイスクリームがこのお店の自慢の品のようでした。長くてがっしりした金属のスプーンでアイスクリームの金属容器を叩いて、上手にリズムを執っていました。写真編をご覧下さい。
<ホテルでの夕食>
カッパドキアで宿泊したホテルでの夕食は、民族楽器を使った演奏付でした。料理の方は、バイキング方式で、品数が揃っていました。飲み物に白ワインのグラスと、赤のハーフボトルを注文しましたから、最初は白ワインに会いそうな品を選びました。野菜類を主体に15種類ほどです。残さないよう、量を少なくしました。
次が赤ワインに合いそうな料理の番です。こちらも余り重たくならないよう、12、3種類を選びました。大き目の鶏肉や、ステーキ類もありましたが、それは遠慮しました。写真編に、これらの料理をアップしておきましたので、ご覧下さい。味付けも全く問題がありませんでした。濃い味が好きな方は、塩や胡椒等で自由に調整できました。
アタチュルク廟で
岡の上の赤き国旗は静まりてトルコの国父廟にいませり
塩湖で
人浮ぶ死海誕生今に見る内陸に在り塩の湖
ギョメレ屋外博物館で
岩山を自在に穿つ洞窟に鮮に残る聖像見たり
キャラバンサライで
隊商の駱駝も共に休みしし宿守りたる高き石塀
上海独り歩き(by 浅山 (あさやん)さん)
上海独り歩き
わたしは以前よく上海に出かけた。北京にも出かけ街を歩き、バスに乗り旅した。
上海の街並は表通りでは明るく、高層建築物が建ち並び、明るい市民の顔があふれていた。
残念ながら今年はいまだ諸般の事情で行くことができないが、少なくともいろいろな見聞記や話を聞いてみると、ここ数年の発展は実に著しい。
旅行はツアーとか団体で行き名所や観光地を訪ね、グルメを味わい、買い物をしたりして楽しむもので有ろう。
けれど、わたしは連れといくことも有るが、現地に着けばそれぞれが思い思いの場所を自由に訪れ、いろいろいろな人と話すことができる旅が楽しみである。
旅と旅行はわたしの中では少しだけ区別しているので有ります。
かと言って言語を十分に話せるわけでもない。
わたしは旅に行けばその地で新たな連れをつくり、彼等彼女たちに案内してもらい、行きたいところに行き、歩きたいところを歩き、時には深夜遅くまで飲み歩くのである。
と言っても日本的スナックやクラブなんてないと思う、わたしはいつもカラオケバーのようなところに行くのである。そこで場合によっては彼女たちと知り合いになり、翌日は案内してもらうのである。
中国の政治や不動産のこと、人の暮らしや意識、生活のこと、さまざまのことを自分なりに学び血と骨にしたいからである。たまにはその人の家を訪ねることもあります。
わたしが行き始めた頃は、今の南京東路などはまだ全く未開発で、夜などは真っ暗な路地と
くすんだ壁色をした古い家並みが続いている。
全く闇の路上で襲われたとしても誰も助けてはくれない。
だから、結構ひやりとした場面に遭遇したこともある。
おそらく警察でさえ、助けを求めるのは困難である。
しかし、死を賭していれば意外と冷静になれるし、それほどの危険性は感じなかった。
少なくともわたしは万一を想定しているからで、
いつ命をなくしても決して文句も言えない。だから旅に出るときは遺書をしたためものだ。
しかし、中国にも日本にも悪も有れば正義もある。
いろいろな人がおりいろいろな考えをもっているから当然である。
それでもまだわたしはまったくわからいことばかりである。
何十年日本国民をしながら、理解できない日本、それがたまに行く程度で
中国の実態や国民性を理解できるとは思ってはいない。
民はいま公式には13億と言われているが、地方の農民地帯を含めれば
実数以上かも知れない。
日本の民はわずか1億2000万足らずである。
今回の反日運動の結果、旅行者が激減したという。
ガイドを生業とする者、地方でしぇんしぇんと言って観光客に品物を売りつける低所得者層、
旅行社に勤める者、レストラン、タクシー運転手等々、
観光客を収入源とする、彼等彼女は間違いなく減収である。
貧富の格差はますます拡大助長している。それらを日本国内にいて理解できるので有ろうか。
その彼らのひとりが言った。
「いまの政治は皇帝政治と一緒だよ。幹部ってすごいよ。」と声を落としてつぶやいた。
わたしには今の上海事情はよく理解できない。
テレビの報道や人の話を聞くだけではなかなか理解できない。
「百聞は一見にしかず」
それでも私が理解出来るのは、実に些細なとるに足りない小さな断面にすぎない。
誰しも平和を望む。
しかし、たとえば刑法的に言えば「急迫不正の侵害ある時、これは正当防衛の成立する構成要件であるが、この場合死を賭しても戦い、守らなければならないものも存在するのである。侵略や攻撃ではない自衛である。
【旅行時期】1997/02/09~1997/02/13
【エリア】
上海
【テーマ】
【投稿者】
浅山 (あさやん)
卒業旅行(by 堺筋急行さん)
大学で所属していた刑法ゼミでは毎年、国内外問わず卒業旅行に行く伝統がありました。
もちろん教授も含めて。
この年は他にも香港(←私です)やアメリカ西海岸と意見が出ましたが、多数決で女性陣の意見が通る結果のグアムに決定。
でも、行くからには楽しまなくては…。
【旅行時期】2001/02/19~2001/02/23
【エリア】
グアム
【テーマ】
【投稿者】
堺筋急行
1988年のヨーロッパ、トルコ編 (② 東部アナトリア)(by ももんがあまんさん)
トルコ編、シリーズ②です、①にも書いたけれど、トルコという国の印象は、西洋近代とイスラム中世の、今まさに激突している処と言う感じです、そして、その思いは、東へ行けば行くほど、強くなります。
写真は、今回のヨーロッパ旅行で、最も興味を魅かれた人物 (故人ですけれど)、トルコ共和国、初代大統領、ケマル・パシャ・アタチュルクの騎馬像です。
「坊主は、政治に口を出すな!」と、イスラム法学者達を一喝し、コーランを床に叩きつけたとの、逸話が伝えられている軍人政治家です、最も成功した、あるいは、最も愛された独裁者とも呼ばれる人物 (坊主には憎まれたでしょうね ?) で、ヨーロッパに於いては、かなりの有名人でもあります (コベンのマダム・タッソーにも、蝋人形があります、本シリーズのデンマーク編をご覧下さい)、勿論、これと同種の騎馬像は、トルコ中のあちこちで見る事が出来ます、因みに、この写真の像は、カイセリのものです。
その業績をざっと並べても・・・ ①カリフ制の廃止 ②メドレセ(神学校)の廃止 ③シャーリーア(イスラム法)の廃止と政教分離の実現 ④アラビア文字の廃止とアルファベットの採用 ⑤女性のプルカ(ヴェール着用)の禁止 ⑥男性のトルコ帽の禁止 ⑦男女同権・男女共学の実施 ⑧民法・商法・刑法の採用(非宗教的法体系の確立) ⑨苗字(姓)の採用 等々・・・・
マア、いちいち書いても、限が無いのであります・・・ 要するに、明治維新を一人でやったような人ですね、しかも「和魂洋才」などという、ケチ臭い事を言わず、文化であろうと伝統あろうと、ろくでもないものは、これを切り捨てるに躊躇しない人でもありました、多分、西洋の「精神」をこそ学ぶべきと考えたのでしょうね・・・ 、勿論、イスラムの、精神への影響は、相当に根の深いもので、一朝一夕に、どうなるものでも無いけれど、故にこそ「政教分離」を国是とする必要を痛感したのでしょう、その理由は、良く理解できる気がします。
因みに、ケマルとは彼の名、パシャとは「将軍」、アタチュルクとは「トルコの父」と言う、議会によって送られた「尊称」であります。
【旅行時期】1988/09/15~1988/09/20
【エリア】
トルコ
【テーマ】
【投稿者】
ももんがあまん
宗教色横溢する街の色は白と黒(by 早島 潮さん)
テヘラン、アファーズ、チョガサンビル、シラーズ、バルサガド、ヤズド、イスファファン
テヘランへは現地時間23時45分に到着した。午前一時過ぎに外へ出た途端むっとする暑い空気の洗礼を受けた。この時間なのに空港施設の出口には手に手に花を持った出迎えの老若男女が夥しい数としかいいようのない程沢山集まっており、旅行者が通り抜ける道もない程に犇いていた。女性は老いも若きも一様に黒色のチャドを頭から被り顔だけしか覗かせていない。酷暑の時期だというのに異邦人には異様な光景としかいいようがない。聖地の巡礼から帰ってきた有徳者を出迎えてその余祿に預かろうとする人々であるという説明があった。
イスラム暦で金曜日の今日は休日だから、このことも人出に拍車をかけたに違いない。イスラム国ならではの空港風景であった。
ハタミ通りのホテルに到着する途中、アザディ・タワーの前を通った。この塔はペルシャ帝国建国2500年を記念して国威発揚の目的で1971年に建てられたY字型の白い建物であり、ササン朝ペルシャの建築様式が取り入れられている。落成当時はパーラビ王朝健在の頃なので今昔の感に浸りながら眺めていた。高さ45メートルあるといい、アザディとはペルシャ語で自由という意味だそうである。
最初訪れたサーダバード宮殿はテヘラン市街の北に位置しアルプルス山脈の麓のオアシスに造営された旧パーラビ王家の夏の離宮である。別名グリーン宮殿とも呼ばれるこの宮殿は生い茂る楓の木立の中に建てられており、パーラビ朝を開いたレザー・シャーが1922年から6年間かけて贅を凝らして作り上げたものである。その内部にある天井から壁まで総ガラス張りの部屋等はキンキラキンに光っており、いかにも成り上がり者趣味の横溢する造作である。パーラビ2世が愛用した宮殿の前には巨大なパーラビ2世のブロンズ全身像が周囲を睥睨して誇らしげに傲然と建っていたらしいが、イスラム革命後破壊されて両足だけが今でも残されていた。統治者の栄枯盛衰をここにも具体的な形として見る思いであった。
アルプルス山脈の山並みが荒涼たるはげ山であるのと対照的にその麓に広がる林の中に造営された宮殿は、清涼な空気に包まれて絶好のロケーションである。イスラム革命前はパーラビ王家以外の人々は建物を建てることができなかったが、革命後はこの周辺は高級住宅地として開放され、今では多くの高級住宅が立ち並んでいる。
朝7時半にアファーズのホテルを出発して約2時間のバスドライブでスーサ近郊のチョガサンビル遺跡へ向かった。快晴でとても暑い。
今回の訪問では日中摂氏52度を経験した。このような高温は生まれて初めての体験であった。数値だけ聞くと人間は倒れてしまい、場合によっては死んでしまうほどの環境ではないかとの印象を受けるが、湿度が低いので体感温度としては数値程のことはなかった。冷房の効いたバスから外気の中へ出ると体が俄に浮き立つような感じになり、歩くにつれて額や背中に汗が滲み出してくるが、体中汗まみれになると言う程でもなく顔と襟首をハンカチで拭えば何とか凌げる程度であった。
古代エラム王国の首都が置かれていたスーサの起源は古く彩文土器が発掘されており、メソポタミア先大洪水文化に相当するといわれている。このスーサの街の南東約40kmにチョガサンビルの遺跡は良い保存状態で存在する。
ジグラッドと呼ばれる日干し煉瓦積みの雛壇式神殿は起源前13世紀中頃にエラム王ウンシュガルが建設したもので、105m四方の大きさで西アジアでは最大のものである。このジグラッドを中心とする470m×380mの聖域には宮殿や地下墳墓があったと考えられている。神殿の前には動物の生贄を供える台の跡が残されており、定住農耕型社会が形成されていたことを窺わせる。また煉瓦を接合するために卵の白身と羊毛を使っていたりアスファルトを用いていたこと等が判っている。
この聖域は更に1250m×850mの外壁に囲まれた都市になっていた。この遺跡の前に立つと起源前7世紀にアッシリアに征服されるまで600年間の長きにわたってこの地で歴史を刻んできたエラム王国の繁栄が偲ばれ感慨一入であった。
チョガサンビルの遺跡から車で約40分ほども北へ走行するとスーサ遺跡がある。この地には紀元前4000年頃から人が住んでおり、紀元前2500年にはエラム人の街が形成された。現在は礎石等が残っているだけであるが、25ケ国で宮殿を造営したという楔形文字の刻まれた煉瓦や閃緑岩に楔形文字で刻まれたハムラビ法典碑やナラム・シン王戦勝碑などもこの地で発見されている。
早朝まだうす暗い6時にホテルを出発してシラーズへ赴くべく空港へ向かった。
サーディー、ハーフェズともにペルシャの詩人でそれぞれイスラム文化華やかなりし13世紀、14世紀に活躍した抒情詩人である。ペルシャ語を後世に残したことで国民的な偉人として尊崇されている。この両人の霊廟にはアケメネス王朝に始まりササン朝ペルシャに終わるまでの古代ペルシャが繁栄していた時代に対するイラン人の民族的な誇りとノスタルジアがあるように思われる。これらの霊廟に額ずき彼らの残した詩篇を眺めるとき,彼ら詩人が当時抱いた危機感が痛いように伝わってくるのを感じた。即ち、7世紀にアラビア半島の片隅で生まれたイスラム教が破竹の勢いで中東世界を席巻しサラセン大帝国を築くに及びコーランに用いられているアラビア語がペルシャの地にも浸透し、非アラビアの民族が育て培ってきた言語が廃れていくことに危機感をもった詩人達の詩情に思いを致すとき共感の情を禁じえなかった。
それにつけても、異民族支配を受けた経験のない能天気な日本人達の国防意識の希薄さ加減と美しい日本語を守り育てていこうという気配さえ窺えない若者達の昨今の言語感覚には嘆かわしいものがある。
ワキールモスク近くのバザールを見学した。アーチ型の天井をもつアーケードの両側に設けられた側壁の中に区割りされて、商人達がそれぞれにありとあらゆる商品を並べているこのバザールは、道幅も広くイスラム世界のカスバやメディナの中によく見られるせせこましくて喧騒に満ちた薄汚いバザールの印象とは全然異なっていて、イランで最も美しいバザールと言われる定評もうべなるかなと思った。
シラーズの南東110kmの地点にあるフィールーズ・ア・バードの遺跡を訪問する途中で乙女橋、乙女城を見学した。ペルシャ語でドクターとは乙女のことを意味し、犯されることがないという意味合いで用いられる。乙女橋は今から1500年程前に作られた石製の橋脚でモンド川に史跡として残されていた。恐らく堅牢な橋だから流されることはないという願いを込めて乙女橋と称したのではなかろうか。また乙女城はこれも1500年程前に作られた城砦であるが、これも落城することがないようにとの願いを込めて名付けられたのであろう。
ペルシャの人々には、女性は子供を産み育てる使命を担っているので貞操は大切なものとして皆で保護しなければならないものという思想があったらしく、乙女という言葉は犯されることがないという意味に転化したのであり面白い発想だと思った。男女間の規律に厳しいイスラム・シーア派の戒律もこのような歴史的な積み重ねの中で生まれてきた社会規範なのだなと一人勝手な解釈をして納得していた。
乙女橋、乙女城を見てから暫く走行すると道路沿いに大小の岩の群れがそそり立っている場所にさしかかった。ガイドが指さす所をみると岩肌に数人の人物像を浮き彫りにした一つの岩があった。ゾロアスター教の善の神アフラマヅダからアルデシール1世が王権のシンボルであるリングを授けられる場面が彫刻されているのである。
アルデシール1世はアルタ・クセルクセスとも言われ、パルチアを滅ぼして226年にササン朝ペルシャを創始した王である。従ってこのレリーフはイスラム教がこの地へ入ってくる前に彫られたものであろう。
やがてバスはフイールーズ・アバードの村へ到着した。昔はグール村と呼ばれた所である。広々とした荒蕪地の真ん中に崩れかかった、日干し煉瓦を積み重ねて建てられた四角錐状の塔がある。これはゾロアスター教の神殿跡と考えられている。この地帯一帯は緑豊かな平原で樹木も生い茂り、この神殿が村の中心として丸く広がる集落が繁栄していたと考えられているが、今は荒蕪地に変わり果てている。長年にわたり徐々に砂漠化していったのであろうが、環境変化の激しさに自然の神秘を見る思いであった。現在叫ばれている地球の温暖化現象はやがて我々が住む緑豊かな日本の国土をもこのような荒蕪地に変えてしまうのであろうか。
神殿を後にして広大な荒蕪地を暫く走行して今度はかなり大きな建物跡と思われる箇所に到着した。これは約1500年前に造営された宮殿のアルデシール跡である。イスラム教がまだ誕生していない頃のササン朝ペルシャ時代の宮殿の跡で、ドーム型の天井と壁跡が残っていた。また宮殿の近くには湧き水が溜まってできた池があるがこれも当時から用水として利用されていたもののようである。澄みきって清浄な水面は輝く太陽の光を受けて七色に美しく光っていた。子供達が手作りの腕輪などを売りにきていたが、他国の観光地の子供の売り子達とは違って万事控えめなのが印象に残った。まだ観光客も少なく擦れていないのであろうか。現にここには他の日本人観光客は見当たらず、我々のグループの他には4~5人連れの白人観光客が2~3組いただけであった。
今でこそ街中イスラム教一色に塗り潰された感じのある国であるが、イスラム教浸透以前の文化遺産が沢山残されているこの国は地下資源にも恵まれており、大きな可能性を秘めた国であるとの印象が強い。
今回の旅行のハイライトともいうべきペルセポリスの遺跡、ナグシェ・ラジャブ遺跡、ナグシェ・ロスタム遺跡、バサルガダエ遺跡の観光である。いずれもイスラム教発生以前の文化遺産である。
イラン中央部に位置するヤズド市は中央砂漠地帯に接していて、イランで最も古い典型的なオアシス都市である。標高1、215m、年間降雨量は59mmと少なく、夏は暑く冬は寒く春秋は穏やかな気候である。
イスラム時代の初期はアレキサンダー大王の監獄として知られていたが、642年頃アラビア軍に占領され、以後はシルクロードの中継基地として栄えてきた。マルコポーロが訪れた14世紀から15世紀頃がこの町の最盛期で、イスラム教の勢力が強いイランの中で、ヤズドはゾロアスター教徒にとって最後の砦となった重要な町である。現在でもゾロアスター教を信仰する多くの人々が住んでいる。
この日最初に訪れたのは沈黙の塔である。これはヤズドの市街地の南東15kmの草木の一切生えていない丘の上に二つの建物が建っていて、ゾロアスター教の風葬が行われていた所である。滑りやすい丘の坂道を用心しながら登り、一つの塔の中まで入ってみた。石畳の天井のない室内には中央に丸い穴が穿たれていて石ころが幾つも転がっていた。ここに死体を安置して鷹や鷲などの鳥達に屍肉をついばませ風葬を行うのである。肉が完全についばまれて骨だけになると遺族達がこれを拾って持ち帰り霊を弔うのだという。丘の麓には日干し煉瓦を積み重ねて作った丸い屋根を持つ宿泊設備が設けられていて遺族達はここに逗留して死体が骨だけになるのを待っているのである。現世で善根を積んだ遺体は早く骨になり、悪行を重ねた死体は肉がなかなか骨から離れず時間がかかると信じられていた。この日観光客は我々のグループだけであり、全然人気がないので若し、遺体が安置されて鳥達が屍肉をついばんでいたらとその光景を想像するとまさに鬼気せまるものがあり、身の毛がよだち厳粛な気持ちになった。
この風葬( 鳥葬ともいう) は50年程前から禁止され現在では行われなくなっている。
次にヤズド市内に幾つかあるゾロアスター教寺院の中でも最も有名なケルマン通りの寺院を訪れた。博物館を兼ねた部屋からガラス越しに聖火を覗いてみると暗い部屋の中で薪が積み重ねられ、紀元470年以来1、530年間燃えつづけている聖火をみることができた。一般に今まで垣間見たゾロアスター教の施設は小規模なものばかりであったが、この寺院も慎ましやかなものであった。
ヤズドの町中では「風の塔」を何箇所かで目撃した。これは屋上をわたる風をとらえて下の居住空間へと送り込む施設で日中猛暑の続く砂漠地帯で案出された天然クーラーである。またヤクチャルという風塔をもつ貯水池は天然の冷蔵庫として使用された。またカナートという地下水路もこの地方で案出された給水設備である。これは立て坑を堀り、横穴で繋いで山からの湧き水を砂漠地帯に引く設備で時には70kmにも及ぶ導水路が作られることもあり、この方法は西アジアのここで生まれ、東に伝わり中国の砂漠地帯でも行われている。
イスファファンはイラン中央部に位置する美しいオアシス都市である。ザクロス山脈の西の裾野にあり、中心部を流れるザーヤンデ川の豊富な水で発展してきた。標高1500mで気候は冬は暖冬、夏は穏やかな気候で過ごしやすい環境である。
古くはパルチァ朝及びササーン朝時代の900年間、首都として栄えた。ササーン朝ペルシャ期に軍の駐屯地 (セババン) が置かれこれが現在の名称の起源となっている。その後イスラム教が浸透してきてからは、イスラム文化が栄えた。モンゴルの侵略にもよく耐えアッバース1世の時代の1、598年にこの地が再び首都となり、ペルシャ文化の最盛期を迎えた。
この街では午前中イマーム広場、イマームモスク、アリカブ宮殿、マスジェド・ロトフォラー・モスク、チェヘル・ソトゥーン宮殿等を見学した。これらの史跡は何れも広大なイマーム広場を取り囲むようにして建てられており、この地域一帯が世界の半分(イスファファン・ネスフェジャハン)として知られている。
最後にテヘランへ戻ってホメイニ廟を見学した。回教は偶像崇拝を禁止しているというが、このモスクの規模の大きさやら街中に張られているホメイニ師とハタミ大統領の写真を彼らは何と説明するのであろうか。これこそ形を変えた偶像崇拝でははないのだろうか。ホメイニ師自体はおそらく死後このような扱いを受けるとは思っていなかったに違いない。イマーム達がホメイニ師の偶像におんぶされ、ぶら下がっているのが現在のイラン政界上層部とイラン宗教界指導層の実態ではなかろうか。
今回の旅行では宗教色が日常生活至るところに浸透している特殊な世界の体験をしたが、感じたことを纏めてみれば以下のようなことである。
一、女性の社会的な地位が低いこと。
1)外出時には必ずチャドを頭から全身に被り、髪と襟足を他人に見せない服装を義務つけられていること。これは観光客の異教徒であっても例外ではない。
概ね黒色が多いが稀には色違いのチャドもある。黒いチャドも個別に仔細に観察すると刺繍を施していたり、宝石で飾っていたりとそれなりに女性らしいおしゃれをしている。
2)女子割礼が行われていること。
3)刑法のうえでも女性は男性よりも不平等な扱いを受けている。殺人刑を一例として挙げてみてもガイドの説明によれば、男子を一人殺せば死刑であるが、女性は二人殺して初めて死刑になるという。このような現代の欧米型市民社会の人権感覚では信じられないような男女不平等が公然と認められていること。
二、巧みな情報統制が行われていること。
1)イラン・イラク戦争はアメリカがイラクを唆して仕掛けた戦争であると信じていること。
2)アフガニスタンのイスラム原理主義集団タリバンがバーミアン仏教遺跡を破壊したことに対しては、モスリム達も文化遺産を破壊した行為は悪いと考えているが、世界の世論は文化遺産の破壊に対しては反応するが、人間が貧困に苦しんでいる事実には関心をよせないのはおかしいのではないかという理解である。
3)モスリムの6信5行を固く守っており、聖戦であれば身を挺して参戦しようと思い込んでいる人々が多いこと。
4)街中いたるところにホメイニ師とハタミ大統領の写真が飾られて偶像崇拝を視覚面から暗黙のうちに強制していること。
5)イランの経済がよくならないのはアメリカの経済制裁措置があるからであると信じ込んでいること。
三、物的人的にも優れた可能性を秘めている民族であること。
四、水道の水が日本人にも飲め、且つ公衆便所まで清潔であり、文化が進んでいると判定する材料となること。
五、今後の指導者の動向如何によってはイスラム原理主義の思想が紛争の導火線となりうる危険性を内在していること。このことはホメイニ師の「予言者マホメットの原点にかえれば全てのモスリムは同胞として家柄、血縁、民族の絆を絶って、イスラム世界の現状を告発し、イスラム法に基づく政治の確立を目指す」思想にその危険性が内在しているからである。現実に、現在の地域紛争やテロの多くのものがイスラム原理主義を信奉するもの達によって引き起こされるケースが多いのである。その卑近な一例がニューヨークでの同時多発テロである。
【旅行時期】2001/05/31~2001/06/11
【エリア】
イラン
【テーマ】
【投稿者】
早島 潮